調査

2000年7月にまずは内部の実測調査を行いました。
建物の時代や重要性を確認するためです。結果として大正時代に一般的に作られていた土蔵であることがわかりました。江戸や明治であればまた文化財的な価値が発生するところですが、現状では大正時代はどうも宙吊り状態で、補助金などをもらえる可能性はあえなく消えました。

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調書
2000/07/17
作成者:西本直子/クロノス

調査は平成12年6月29日、西本直子と多井忠嗣氏((財)和歌山県文化財センター)、平成12年7月7日に西本直子と西本真一(早稲田大学建築学科助教授)とによる実測調査で合計2回行われた。結果は西本直子((有)一級建築士事務所クロノス)により纏められたものである。

名称:土蔵
所在:和歌山県和歌山市
構造形式: 桁行25.11尺(7.609m) 梁行15.75尺(4.773m) 2階建 切妻造 本瓦葺 平入 庇付き
築造者:池田重兵衛
築造年月日:大正11年(1922年) 3月20日[棟札]
大工:田中岩吉 (手傳 乾菊五郎)
築造費用:約1万円と伝えられている

所見
初代池田重兵衛氏により築造されたと思われる。
2回目の調査で棟札が見つかり築造年等の詳細が明らかになった。
当初の所在は現・城北公園内であったが、戦後の区画整理の折り、現在地に曳き家された。平面外法はほぼ5.2m×8.1mの矩形である。柱間は3.15尺(詳細は実測図を参照)。軸部は天端GL+400mmの石組の土台の上に乗っている。敷地から望める妻側立面の土台では歪みにより生じた隙間をモルタルで補修した跡があり、恐らく曳き家などした折りにひずんだまま修復が行われたと考えられる。外壁は土壁の上漆喰塗した上に、後に地面より約2.33mの高さで小巾板を縦に張った腰壁を張っている。腰壁の釘は和釘で、内部に使用されている丸釘より古い仕様である点が注目される。
東側に隣接して鉄骨造構築物が立てられているが、その屋根に当たった雨水が跳ね返り、長年に亘って壁面を濡らしており、該当箇所の壁に甚大な傷みが見られる。東外壁面にはカビの発生も伺われた。また、東側内壁及び勾配天井部に蝕害(シロアリ)の痕跡が観察される。東側壁面の清掃と、腰に貼られたトタン板を剥がして壁の状況を確認する必要があろう。西側壁面入口に向かって左脇にくりぬかれた開口がある。故意に四角く土壁が切り取られているものの、内壁の板壁は切られていない。いつこれが行われたかは不明である。
内部はトガ材と思われる柱梁構造が露出している。内壁面は板張りで、1階床面よりほぼ1間の高さで継がれている。平面中央に大黒柱が立つ。現在も倉庫として使われており、年に数回出入りがある。そのためか内部には湿気がこもっておらず、残存状態は良好である。2階東壁面と勾配天井面の一部にシロアリの被害が見られる。西側出入り口前の庇は腐朽が甚だしい。
2階床面に用途不明の開口があるが、もともと開口部に嵌められていたと思われる床板が2階に残されていた。1階、2階とも内壁にそって幅木が回っているが、上階に上がるために床に穿たれた2階床の開口部回りにもこの幅木高さとほぼ揃う形で縁が立ち上がっており、現在の床を荒床として畳が敷かれていたとも考えられる。かつて住居の一部として使用されていた可能性もあろう。
窓の扉は失われているが、外壁漆喰壁に扉の鋲の跡が残っており、外観に関するある程度の復原は可能と見られる。
足下の空地には瓦などが残されており、他にも土蔵の部材が残されている可能性が指摘され、整理に際しては慎重を期する。

添付資料:実測図(1・2階平面図/1・2階天伏図/断面図)及び現況写真(9枚)


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